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この度、今から93年前、美保関の北東約20海里で起きた「美保関事件」によって沈没した駆逐艦「蕨(わらび)」及び駆逐艦「葦(あし)」の艦尾を地元の建設コンサルタント会社の協力を得て調査することになった。
具体的には上の記事の後編で紹介する「軍艦」と呼ばれる漁礁と、当時「蕨」の沈没地点とされた海域をマルチビームソナーで調べる。
その調査に先立ち下見と、本調査では時間と船上のスペースの都合上行えない船上慰霊祭を兼ねて今回は仮調査へ行ってきたのでその様子を書いていく。
仮調査当日。
この日は船主さんと私に加えて、船上慰霊祭を行うために地元神社の神主さん、それから以前調査の件を記事にしていただいた読売新聞の記者さんが乗船された。
天候にも恵まれ、心配していた波の高さも50cm~1mの予報である。
午前8時、出港。
渡の漁港からまず地元漁師の間で「軍艦」と呼ばれている漁礁を目指す。
出港から約10分、美保関灯台へ行く途中の山の上に美保関町五本松公園の「平和祈念塔」が建っているのが見えた。
これは美保関事件の2年後に美保関の人々によって建てられた慰霊碑である。山の頂にあるため陸からは見えにくく、またアクセスも悪いのですっかり寂れてしまっているこの塔だが、こうして船に乗って付近を通ると抜群に目立つ位置にあることがわかる。
嘗てここへ立っていた「関の五本松」の代わりに海上交通の目印となっているように思った。
出港から約15分、美保関灯台を過ぎいよいよ外海へと出ていく。
このあたりからはうねりが強い。船はそのうねりの山を押さえつけるように水をかき分け、激しく揺れた。どこかに捕まっていないと到底立っていられない。
激しい揺れと、海の匂い、それから船の排気ガスが混ざり、かなり酔った。酔い止めを買っておけばよかったと思った時にはもう遅く、陸地は遥か遠くに霞んでいる。
神主さんは完全にダウン、記者さんも写真を撮る手が止まり、すっかり誰も喋らなくなってしまった。
「軍艦」までの道中の水深は下の海図の通りである。
美保関灯台を通過するまでは浅く、水深20m程度、その先は40~60m前後であり海底に目立った起伏はほとんどない。途中ノイズのようなものが映る場所があったが、ソナーの画面を見た限りでは海底に背丈の長い海藻でも生えていたのではないかと思う。
出港から約2時間、「軍艦」の近くへ着いたのは午前10時過ぎであった。
既に他の漁船が釣りに来ており、「軍艦」が魚のよく釣れる漁礁として地元漁師に広く認知されているということを改めて実感する。
しばらく周囲をぐるぐる回ってもらい、「軍艦」を探した。ほどなくして「出てきた、出てきた」と船長さんの声がした。
最初に魚探に反応があったのは上に載せた海図上ではBの地点。2つある「軍艦」のうち、南側に位置する地点である。(当初聞いていた「軍艦」の、上の海図ではBとしている地点の座標と完全に同じ場所。)
この写真がその海底障害物を映した画面。このあたりの水深はおおむね96m前後であり、80mの目盛りまで障害物の高さが来ているので、単純計算で高さ15m程度の物体が海底に存在するということになる。
この障害物についてだが、明らかに周囲の海底とは異なる起伏、形状をしていたことから何かが沈んでいることは確実と思われる。
また、この魚探の画面下に表示されている緯度経度の値についてであるが、度、分は60進数、それ以下の部分は「分」の少数点以下の数値であり10進数となっている。
船酔いで完全にダウンしていた神主さんだが、「軍艦」発見と聞いてなんとか起き上がり殉難者の慰霊のため八重桜の花びらを撒いておられた。
菊の花。
そして未だ正体のはっきりしない「軍艦」に皆で手を合わせた。
この「軍艦」が蕨でなくてもこの海のどこかには、ついに発見されなかった100名以上の殉難者が眠っている。
昭和2年当時、海軍に加えて山陰両県からも多数の民間船がこの場所を目指して出航し、連日遺体や漂流物の捜索にあたった。GPSもなく船の性能もさほど良くない時代にここまで来るのは今の何倍も大変だっただろう。
Bを発見した後、そこから700mほど離れたA地点を探した。しかし残念ながらいくら探しても一向に見つからない。うねりに加えて付近は潮流が強く、狙った通りに船を操作するのが難しいのである。漁船のレーダーは表示範囲が狭いため一度迷ってしまえば障害物の捜索は困難であった。
Aを発見することが困難だと判断し、一度Bまで戻ることになった。
Bまで戻ると再びレーダーに障害物のようなものが映り始めた。付近の海底は波を打ったような起伏が見られ、また海底付近にはノイズのようなものが多く映る。
今度の通過で違ったのは水深である。B地点の周囲の水深は基本的に96m前後であるが一部、くぼんだようになっている地点があり、110mから最大で136mまで深くなっていた。この深間の座標は一度目の通過で確認した障害物の北西に位置し、数値上でいえば30mも離れていない。
Bの再通過後はそのまま、「美保関のかなたへ」の本文中に出てくる当時海軍が測定したとされる地点(東経133度35分、北緯35度49分)へ向かった。
こちらは緯度経度の「分」以下が不明であるため、ひとまず緯度を北緯35度49分20秒付近に合わせ、東経133度37分から真西へ向かってそのまま35分を過ぎ34分に入るまで一直線に通過した。
付近の水深は海図記載よりも幾らか深く、水深175mから西に進むにしたがって徐々に浅くはなっていったものの、150m以下にはならなかった。
肝心の海底障害物の捜索であるが、水深が150m以上と深かったため魚探の性能が足りず、画面には砂嵐のようなノイズが永遠と映るばかりであった。
また表示の縮尺の関係で5~10m程度の起伏ならつぶれてノイズと見分けがつかないような状況であった。
この調子では海底障害物の捜索は困難であると判断し、1度の通過を終えて調査終了として港へ帰った。
今回の仮調査では漁礁「軍艦」が確かに存在することを確認することができた。また、目的地までの所要時間や揺れの程度など本調査を前にして色々知ることもできた。
この「軍艦」は一体どのようなものなのか、本調査の実施に期待がかかる。
おまけ
「軍艦」付近にて野生のイルカの群れに遭遇。
漁船を見ると喜んでいるのかしばらくついてきた。写真には撮れなかったがはねたり大きくジャンプをしたり、サービス精神に溢れたイルカ達であった。
帰り際に撮影した「沖ノ御前島」。美保関から約2kmの海上にポツンと浮かぶこの島は古くは出雲神話に登場する大国主の息子である事代主が釣りをしていた聖地とされる。事代主は「えびす様」ともいわれ、七福神の恵比寿様が釣り竿と鯛を持っているのは事代主が魚釣りをしていたというエピソードからきているらしい。
~つづく~