昨年末から昭和初期に地元で起きた海軍の軍艦同士の多重衝突事故である「美保関事件」の殉職者慰霊祭を行っている「美保関沖事件慰霊の会」へ縁あって入会し、その活動に参加することとなった。
↓会の公式ホームページ
美保関沖事件とは、1927年8月24日島根県美保関沖において日本海軍の夜間演習中に起こった軍艦同士の多重衝突事故である。巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」、巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」が衝突し、蕨が沈没、葦は1/4程のところで艦尾が切断され、両艦合わせて119名が殉職した。当時、この事件は新聞にも連日大きく取り上げられ、広く世間を騒がせることとなった。海軍史上未曾有の規模の、重大な海難事故である。
詳しくはwikipediaでも読んで貰えれば私の説明より幾らか詳しいと思う。
また、美保関沖事件を題材にしたノンフィクション小説も過去に出版されている。
これは事故で沈没した駆逐艦「蕨」の艦長の長男である五十嵐邁氏が書いたもので、「黒き日本海に消ゆ」という本の復刻版である。
今回はこの美保関事件がどこで起きたのか、そして駆逐艦「蕨」はどこで沈没したのかいくつかの資料を元にして考えてみようと思う。
というのも、少し調べてみただけでも事故発生地点、並びに蕨沈没地点については諸説あり、それぞれ微妙に位置が異なるのである。
下の画像は国土地理院の地図に当時の新聞報道や市の歴史文献、また地元の伝承にある「駆逐艦蕨の沈没地点」を示したもの。はっきりと1点に定まらず、資料によって位置がバラバラである。1~4までの番号を振ってある。
同じく、発生現場付近のグーグルマップ。
まずは当時の新聞報道や境港市史などの歴史資料、「美保関のかなたへ」の本文中にある記述などから沈没地点を見ていく。
・第一報は「美保関から北東20海里」
美保関事件が発生したのは昭和2年(1927年)8月24日の深夜11時過ぎであったとされる。
現在確認している中で、この事件を最も早く報道した新聞として翌25日の大阪朝日新聞号外、大阪時報新報号外などがある。小説「美保関のかなたへ」によると配布時間は午後一時頃であり、
「巡洋艦『神通』と衝突し、駆逐艦『わらび』沈没、死傷者多数の見込み」
「美保関付近で、軍艦四隻衝突す」などの見出しがあったという。
まだこの時点では大まかな死傷者数や事故発生現場についてはまだ把握できていなかった様子である。
その日の夕方、事故発生現場の位置や死傷者数についての詳細な報道がなされた。
下の画像は8月25日の大阪朝日新聞夕刊。
[海軍省発表]
昨二十四日聯合艦隊夜間演習中午後十一時二十分美保關の北東二十浬の地點において第五戰隊軍艦神通と第一水雷戰隊第二十七驅逐艦蕨と衝突、蕨は約十五分の後沈没し神通は...(以下略)
美保関事件の発生現場そして蕨の沈没地点として、「北東20海里」と報道されている。
他の新聞社の紙面に美保関事件が掲載されたのはその翌日、日付上事件発生の2日後にあたる8月26日の朝。
[海軍省公表]
昨二十四日聯合艦隊夜間演習中午後十一時二十分頃美保の關の北東約二十浬の地點において第五戰隊軍艦神通と第一水雷戰隊第二十七驅逐艦蕨と衝突し蕨は約十五分の後沈没し神通は...(以下略)
上の大阪朝日新聞の内容とほとんど同じである。
続いて同じ日の「鹿児島新聞」の記事。
[海軍省公表]
昨二十四日聯合艦隊夜間演習中午後十一時二十分美保の關の北東約二十浬の地點において第五戰隊軍艦神通と第一水雷戰隊第二十七驅逐艦蕨と衝突し蕨は約十五分の後沈没し神通は...(以下略)
昭和2年8月26日 鹿児島新聞より
最後に同じ日の読売新聞朝刊。
(廿五日午後零時半海軍省公表)
廿四日聯合艦隊夜間演習中同十一時二十分美保關北東約二十浬の海上で第五戰隊軍艦『神通』(五五九五頓)と第一水雷戰隊第廿七驅逐隊驅逐艦『蕨』(八五〇頓)と衝突し十五分後『蕨』は沈没し神通は...(以下略)
昭和2年8月26日 読売新聞より
[海軍省発表]とされるこの公表は事件発生の翌日、25日午後12時半頃に行われたとある。
いずれの新聞社も記事の文章の構成がそっくり同じであることからこの内容は文書で発表があったのか記者会見のような場所で読み上げがあったのか定かでないが、各社同じ文言を聞いたのだろう。
なおこの8月25日夕刊、8月26日朝刊の時点での報道では駆逐艦蕨は約15分の時間をかけて沈没したとされているが、これは事件発生直後に神通から発信された一連の電文の打電に時間がかかったために生じた誤解であり実際には蕨はわずか1分足らずで沈没したとされる。
また、事故現場は海軍の発表にならっていずれも「美保関の北東20海里」としており、水深については「五十尋以上(大阪朝日新聞夕刊)」、「六十尋の深海(因伯新報)」などと若干の差異があるものの、後の報道に比べ総じて浅い。
(※1尋=1.8mより50尋=90m、60尋=108m)
1.東経133度35分、北緯35度49分
地図中①の地点である。
この場所を美保関事件の発生現場及び、駆逐艦蕨の沈没地点だとする記述は美保関事件を題材としたノンフィクション小説「黒き日本海に消ゆ」及びその文庫版である「美保関のかなたへ」の本文中に登場する。
東経一三三度三五分、北緯三五度四九分の沈没地点は周囲の海底にくらべて二十尋から三十尋も深く八十尋から百尋もあり、俗にホリと呼ばれて鯛がよく獲れる場所であった。 「美保関のかなたへ Ⅲ p118より」
また、本文中には事件発生の4日後にあたる8月28日、住山侍従武官が特務艦「鶴見」に乗って事故現場へ行く場面がある。以下、その引用。
艦は速度を落として、新しい赤い浮標の浮いている遭難地点に近づいた。海面は三日前の事故によってそこが傷つけられ、膿んだもののように重油が黒く漂っていた。
「ここです。まだ重油が浮いています。」
指された海面を見ると、たしかに一点だけ重油がわずかながら、泉のように湧き上がるのが認められた。
それを見た住山は深い海底の「蕨」がまだ生きて脈を打っているかのような錯覚を覚えて思わず、
「蕨を引き揚げることはできないか?」
と訊いた。
甲板に集まっていた艦長や士官たちは黙ったが、しばらくして艦長は、
「佐世保港外で沈んだ四十三潜水艦の時も、二十七尋の深さでさえ大変難儀いたしました。現在の私どもの技術では、沈没船の引き揚げは三十尋が限度でございます。ここは俗に八十尋とも百尋ともいわれる深間でありまして、昨日縄を下ろして精確に測りましたところ七十四尋でございました。そうなりますと、引き揚げはまず絶望的と申さねばなりません」
「美保関のかなたへ Ⅲ p123-124より」
事件後しばらくは、蕨沈没地点には重油が浮き上がっていたようである。海軍はそこにブイを浮かべ、地元の漁師らの協力を得ながら遺体や漂流物の捜索を行っていた。
なお海軍が縄で測ったとされる水深74尋は水深約133mである。
上の新聞は昭和2年8月27日の大阪朝日新聞山陰版、事故現場付近一帯が油の海になっていたという記事である。重油の流出量は日が経つにつれて減少に向かってゆくだろうから仮に当時、この一帯に漂う重油を捜索の手掛かりにしていたとするならば事故発生から数日経ってからの捜索記録の方がかえってそれ以前のものより精度が良いのではないか。
さて、この「東経一三三度三五分、北緯三五度四九分」という緯度経度であるが当時のいくつかの新聞報道にこれと同じ緯度経度の記載が確認できた。
そのうち最も早く報道されているのは事件発生2日後の1927年8月26日の大阪朝日新聞夕刊である。
余は白洋丸に搭じ駆逐艦蕨、の沈没現場である美保湾沖日本海に向う、船は逆まく怒涛をけり沖へ沖へと進むに従い東北の疾風はいよいよ強く船体の動揺甚だし美保湾頭にはいましも作業を終った軍艦竜田及び駆逐艦「つが」「かし」「にれ」「たで」「よもぎ」「はす」ほか四隻計十一隻が入港中である、地蔵岬灯台からは青白い光を放ちもの凄いこといわんかたなし、漸く午後八時ごろ現場附近に達したが既に船影だになくダダ広い海はただ怒涛の聞ゆるのみであたりは暗く海底の藻屑と消えた百余の英霊があたかも哭するようだ、現場は地蔵岬灯台の東北約二十浬東経百三十三度三十五分北緯三十五度四十九分で隠岐西郷岬からは二十五マイル東南に当る箇所で附近は日本海の暖流が通過しているところで水深約百尋で平素航路には当っていない、
「怒濤叫ぶ沈没現場に殉難将卒の英霊を弔う 水深百尋の魔所に沈む「蕨」未だ一死体をも発見せず【境にて古川、上野両特派員発】」 昭和2年8月26日の大阪朝日新聞夕刊
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防 (7-088)より引用
記事中の事故現場の水深は小説本文中とは若干異なり百尋(180m)となっている。
この二人の記者たちは「白洋丸」という船で事故現場へ行っている。おそらく記事の書き様からして「東経133度35分北緯35度49分」という緯度経度や百尋という水深はこの「白洋丸」によって測定されたのではないだろうか。その後の報道によると「白洋丸」は500トンのそれなりに大きな船であるようだ。
またこの記事の翌日27日の「山陰新聞」にも同じ緯度経度の記載があった。
遭難の現場は美保関北東二十浬、北緯三十五度四十九分、東経百三十五度三十五分、西郷より南東に三十五浬の地点で水深約百尋の箇所である。
昭和2年8月27日 山陰新聞夕刊 境港史五十五年史より
こちらも水深は百尋となっている。
小説中の緯度経度の数値だが、おそらくこれらの新聞報道を参考にしているのではないか。この2つの新聞記事以外にこの緯度経度を記載した当時の資料は見つからなかった。
なお百尋という水深についてだが緯度経度とセットになって記載されていることからこの緯度経度を算出した時、その場所で測った水深が百尋であった、と考えるのが自然である。
また、この二つの記事にある数値、緯度経度は同一であるが隠岐島の西郷からの距離が大阪朝日新聞では25マイル(25海里)、山陰新聞では35海里と大幅に食い違っている。
ちなみにこんな記事もある。
廿五日午後六時頃駆逐艦多津田、スガ、サセヨモギ、蓮他四艦は美保湾へ投錨駆逐艦多津田の艦載水雷艇は食糧購入のため境港に入港したので記者は沈没の状況を尋ねたが水兵等は多くを語らず廿六日から三日間演習をなすが如く洩らしたが察するに捜海作業をなすものと認められる因に沈没場所は東経百三十五度三分北緯二十五度二十九分隠岐國西郷岬を離る東部二十五海里水深百尋の所らしい (境電話)
昭和2年8月27日 因伯新報
この記事だが、かなり怪しい部分がある。まず駆逐艦多津田とあるが軽巡洋艦「龍田」の誤りである。それにスガは樅型駆逐艦「栂(ツガ)」の聞き違い、サセヨモギは同じく樅型駆逐艦「蓬(ヨモギ)」と母港である佐世保が混同したものであると思われる。
また、記事中にある「東経百三十五度三分北緯二十五度二十九分」は下の画像の+の地点であり、どう考えてもこれは数値を誤っている。
このように明らかに聞き違いや数字の取違いを含んだ記事が新聞に掲載されていることを見るに、おそらく最初の発表以降、沈没地点の緯度経度や水深に関する海軍の公式発表はなく、新聞各社の記者がおのおの方々へ取材して回って記事を書いていたのではないかと思う。各社が色々な所から情報を集めて来ているためにそれぞれ微妙に異なる部分があるのではないか、ということである。
結論として、8月26日頃から「美保関の北東20海里」に加えて「東経133度35分北緯35度49分」というより具体的な緯度経度の情報が出回り始めた。おそらくこれは事件の翌25日に朝日新聞の記者を乗せた「白洋丸」という船が現場へ行き測定したものなのだろう。
また、水深について26日時点では百尋(180m)というのがどうやら通説であり、これは25日~26日の間に測定されたものと思われる。なお小説中には海軍が重油の浮いてきた場所の水深を測り七十四尋(133m)であったとの記述があるが、日付が正しければそれは27日に測定したものであり、百尋とした新聞報道の水深とは別に新しく測りなおしたものである。また、この水深七十四尋の地点と上記の緯度経度が同じ場所なのかは定かではない。
ちなみに美保関灯台に設置されている美保関事件の記念碑に示されている「衝突地点」はこの緯度経度の地点である。
2.地蔵崎灯台ノ北三十九度東二〇・七浬
地図中の②の地点。
海軍の遭難捜索報告書等に記載のある駆逐艦「蕨」の沈没地点。衝突
から約三十分後の午後十一時五十分、現場で乗員救助にあたっていた
「神通」によりこの地点にブイが投下された。海軍はその後、このブイを起点として掃海作業を行っていたとされる。
3.地蔵崎の北東21.8海里
地図上④の地点。
この地点で海底に横たわる駆逐艦「蕨」の艦影を捉えたという記録が境港市史に載っている。
昭和四三年七月、島根県の水産試験船しまね丸が地蔵崎の北東二一・八浬(約四〇・三㌖)付近で海底に横たわる「蕨」の船体をレーダーで発見した。現場の水深は一八〇㍍で引き揚げなど不可能ということ、船体は格好の魚礁になっているという。
境港市史 上 第十章 軍事 p640
昭和2年に海軍が測った水深74尋(133m)とは異なりいくつかの新聞報道にあった水深100尋と同じ水深180mと記録されている。
ここでいう「地蔵崎」とは美保関灯台のある付近のこと。かつて海難事故の死者の供養のためにここにおびただしい数の地蔵が祀られていたことから「地蔵崎」と呼ばれている。
また、これに似た話として今から10年ほど前、NHK松江支局の記者が漁船に乗り込み沈没地点周辺で調査を行い、「蕨」の船体らしき海底障害物を捉えたという話がある。
これがその時の測定データの画像。 このソナーだと船体の詳細な形などを見ることは難しいが何か船のようなものが海底にあったのだという。水深は178m。
この場所が具体的に地図上のどこなのかということは残念ながら分からないのだが、水深から察するに「しまね丸」が「蕨」を捉えたとされる場所と同じ地点で同じ海底障害物を見たのではないだろうかと考える。話によると甲板上の構造物は引きはがされたようになくなっており、船体も砂に埋もれてしまっているらしい。このソナーだと船体の幅や長さがわからないためこれ以上の考察はできない。
[追記 2021/06/25]
このソナー画像について、有力な情報が得られた。先月下記の駆逐艦「蕨」発見の件でNHK島根から取材を受けた際にこのことを尋ねたところ、放映した映像と共に当時の取材状況を調べて教えてくれたのである。
話によるとこの時船を出したのは美保関町の遊漁船。今でも営業しておられたのですぐさま電話で連絡を取り、当時の話を聞きに行った。
どうもこの地点も「軍艦場」と呼ばれているらしい。④の軍艦と比べると水深が深いため魚があまりおらず、そのため知っている人が少ないとのことであった。
プロッターに残っていた座標を押さえ、後日別の船で再度この構造物の確認を行った。
水深180mの海底にやはり何かが沈んでいる。
魚探への映り方から推測すると鉄や岩などの固い材質の物質であり、南北に細長い形状をしている。大体長いところで30mくらいの大きさをしている感じである。
現段階の予想であるがこれは蕨の船体後部、もしくは葦の艦尾なのではないだろうか。
今後の調査に期待がかかる。(2021年7月に調査予定)
4.漁礁「軍艦」
地図中③の地点。
この地点の海底には大きな構造物が沈んでおり、漁業関係者の間では漁礁として広く知られている。鳥取県境港市、島根県美保関町などでは「軍艦」「ワラビ」等と呼ばれ、古くから駆逐艦「蕨」が沈んでいる場所と伝えられてきたようだ。
この「軍艦」の情報は以前一式陸攻の調査をした際、船を出してくれた船主さんから教えていただいた。いつから誰がそう呼び始めたのかは定かではないが、船を購入したときに店の人に釣りスポットの一覧を教えてもらい、その中に入っていたのだという。
平成二十年度の水産庁の広域漁業調整委員会においてもこの「軍艦」が話題に上がっている。
「軍艦場というのは、昔から「蕨」という戦艦が沈んだところで、それが崩れて大変いい漁場になっていると。今は全部崩れていますけども、いまだにいい漁場だと。アカガレイの大変いい漁場だったんですね。」
この「軍艦」の正体を明らかにするため、令和二年5月~9月に何度かこの「軍艦」の調査を行った。
結果から言うと、この「軍艦」は駆逐艦「蕨」の船体前部と思われる。
美保関から北東33km、水深96mの海底に沈む駆逐艦蕨。
— 美保関沖事件慰霊の会 (@mihonoseki1927) 2020年9月21日
[提供:WORLD SCAN PROJECT/九州大学浅海底フロンティア研究センター] pic.twitter.com/97MOhWLiH7
「スプーンバウ」と呼ばれる樅型駆逐艦の特徴とも言える艦首形状を有している他、そこから約50mのところで船体が切断されている。また、全高、全幅などの船体形状も樅型駆逐艦と非常に似ている。この付近で行われていた底引き網漁により、船体には全周にわたって漁業の網が大量に絡まっており甲板上の構造物はなぎ倒され、何も残っていない。
船体は切断されているので近くにもう1つがあるのではと思ったが、半径600m以内には何も落ちていないようだ。
以上が駆逐艦「蕨」の沈没地点候補とその詳細である。
現段階の予想では駆逐艦「蕨」は衝突によって船体が切断された後、海底に着くまでに各部がそれぞれ流されているのではないかと思われる。おそらく神通と衝突したのは①②の付近であり船体後部はそのまま直下に沈んだが、前部はすぐには沈まず、④まで流れてきたのではないか。
現段階では謎が多いが、今後の調査で徐々に明らかになっていくことだろう。
[追記:2023/1/7]
2021年夏に調査を行い、後部も発見しました。
↓美保関沖事件慰霊の会HPより
~つづく~