こんにちは。
前回の記事では二式大艇にぶつかった船の話をご紹介しました。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
そして前々回の記事で「この海没処分を目撃した現在90代の方がいる」というような事を書いていたと思いますが、
akiyuki2119067018.hatenablog.com
今回はその方にお話を聞くことができました。
先日証言のあった処分現場に最も近いところに住んでおられる方です。
今まで証言をしてくださった方の中でダントツで最年長の方ですね。
以下、伺った話の要約です。
「昭和20年8月22日、私は当時16歳でした。その日は学校が休みなので家にいました。ふと中海を見ると、二式大艇がこちらへ向かって来ていました。台風で堤防が壊れて、家から見えたんです。4発の大きな飛行艇でした。翼の上に20人くらいの兵隊さんが立っていて「おーい」という声が聞こえました。驚いて海岸に行くと、「荷物を運びたいから船を出してくれ。」と言われました。
大勢の人が集まり、近所に住むおじいさんがポンポン船を出しました。私も船に乗って、飛行艇の中に入って、兵隊さんの荷物を下ろしたり、運んだりする手伝いをしました。荷物はそのおじいさんの家に預かってもらいました。飛行艇は堤防にある防風松にロープで係留し、錨も下ろしておりました。
荷物が揚がると、兵隊さんが松の木のあたりから機関銃で二式大艇を「ダダダーン、ダダダーン」と撃ち始めました。燃料に火が付き大きく燃え上がりました。係留していたロープや、錨のロープも燃えて切れました。燃えながらこちらへ近づいて来たと思うと、河口で転覆して沈みました。浅かったので尾翼をはじめフロートなど、3分の1は水面上に出ておりました。
機長さんが私に「尾翼の菊の御紋章を残しているのはまずいので、消しておいてくれ。」と頼まれました。2、3日後、我が家の船を出して、鉞でたたき壊して分からないようにしました。
終戦後なので色んな人が来ました。フロートは私と前の家の人が外して持って帰りました。錨も集落の人が引き揚げました。後にフロートはボートにするからと安来の人が持って帰りました。錨も安来の人が持って帰りました。
また、胴体と翼が水面上に出ていましたが、9月の初め頃に台風が来て全部見えなくなりました。ただ、その場所に行くと1mほど下に沈んでいるのが水面上から見えました。
ところが、プロペラの先が水面上に出ていて、土砂運搬船が引っかかりました。その方は戦争に行っておられたので二式大艇のことを知らなかったのです。私はその場を見ておりました。「おーい、頼むわ」と声をかけられたので、我が家の農耕船を出して、他の家の船と両側から挟んで、沈まないようにロープで縛りました。そして、安来港の造船所へ向かいました。
それから、昭和25年7月の25日の朝鮮動乱。内需拡大で鉄屑回収が盛んに行われました。
25年の10月頃、サルベージ船が来て全部引っかけて持って帰りました。残骸も残っていないでしょう。このあたりではなく、他所から来た業者でした。
船を出した隣のご夫婦の息子さんはフィリピンで戦死されています。この小さな集落で3人も戦死しました。二式大艇が沈んだときは、何ともいえない気持ちでした。」
いままで、この二式大艇が戦後に回収されたのかという話については、知らない、聞いたことがないという人しかおらず、回収があった。見た。という証言をされたのはこの方が最初にして唯一です。
機体の有無についてはこれではっきりと決着がついたのではないかと思います。
手記ではこの二式大艇はその日のうちに尾翼まですべて沈んだというように書いてありましたが、どうも2週間ほどは半分以上がまだ浮いていたそうです。
そして、台風で沈んだ後に、海面に出ていたのは尾翼ではなく、プロペラだったとのこと。前回の記事で紹介した船も、ぶつかったのはプロペラだったのですね。
今回の証言でこの二式大艇の処分やその後の様子の全容が明らかになりました。
記事の内容が断片的なので読んでる方も整理がつきにくいかと思いますが、また近い内に一つにまとめたものを書こうと思います。
また、来春以降に地元の歴史研究会でさらに詳細にまとめた物を発表し、正式な歴史資料とする予定です。
現場のほうも、暖かくなったら泳いでみて、何か残留物がないか見てみようと思います。
~つづく~