こんにちは。
いよいよ秋も深まり夜寒を覚える今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。
前回の記事。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
一式陸攻も。
akiyuki2119067018.hatenablog.com
前回の記事を書いた頃には、もう海で泳げるような気温でもなく、泳げたとしても例の険悪地を見る手段もありません。
なので今年の海水浴はもう辞めてその後は、興味を持ってくれそうな人にこの話を紹介してみたり、図書館に行って資料を探したり、サバゲーのイベントに呼ばれてその見学に行ったりしていました。
そういう流れで先日、小学校以来の友人と数年ぶりに連絡をとって一式陸攻の話をし、大変興味を持ってくれたので一緒に不時着現場を見て周ってきました。
彼も飛行機の不時着云々という話は初めて聞いたらしく、最初はびっくりしていましたね。
一通り現地を周って説明した後、「これから一緒に探そうぜ。」みたいなことを言ってその日は別れたのですが、さっそくその夜に彼から電話が掛かってきました。
どんな用件かと思えばなんと、
「さっき祖父に二式大挺の話をしたら、当時安来に住んでて、実際に銃撃処分を見てたって。」
と言うのです。
なんという偶然。
あまりに話が急だったので一瞬訳が分かりませんでした。
本当に世の中はどこがどこと繋がっているか分かりませんね。
なんて運がいいのでしょう。
という訳で後日、その友達のおじいさんの家を訪問し、正式にお話しを伺ってきました。
以下、その時の話の要約です。
「当時は六歳でしたが、飛行艇のことは覚えています。遠くからでも高く黒煙が上がるのを見て、湖岸に行きますと、大勢の人が集まり、大きな飛行艇が燃えておりました。岸から五十~百メートルほどありました。半ば沈んでいる状態でしたが、よく燃えておりました。機関銃は見ていません。大人たちが近くに行かせてくれませんでした。それでも顔が熱く、髪が燃えるような気がしました。近所の人が船で濡れた兵隊さんを助けていました。その方は、「黄色い汗が出とった。」と言っておりましたが、きっと油か何かをかぶられたのでしょう。しばらくは、飛行艇の部材でしょうか、生ゴムとスポンジのようなものがたくさん岸に上がりました。飛行艇は干潮の時には尾翼を出しておりました。同じ部落の人で、飯梨川の砂を木造船で松江に運ぶ仕事をしておられる方がおられましたが、この尾翼に当たって船底に穴が開き、急いで引き返したという騒ぎもありました。その後、二十五歳までこの地で農業をしておりましたが、引き揚げられたという話は聞いておりません。」
二式大挺の話を知ってから、郷土資料や二式大挺についての雑誌、戦時中の手記などあらゆるものを見てみましたが、当時、実際に銃撃処分を見ていた住民の証言というのはどこの本を探しても載っていません。
というか、処分の話も「最後の飛行挺」という手記に載っているのみで他には一切の資料が無かったのです。
それ故、具体的な場所や後日談などは一切不明でした。
これは大変貴重な今ある中では唯一の証言です。
そして、その処分場所というのがこちら。
赤まるで囲ったこのどこかです。
(海上保安庁刊行 W1174)
↓こちらの地図もご参照ください。
(前回の記事で、海図と勘を頼りに場所の予想をしていましたが、全然違う場所でしたね・・・)
akiyuki2119067018.hatenablog.com
海図をご覧ください。
険悪地の記号は見られませんが、安来市の西方、沿岸が水田、市街地からは離れた場所、などの手記の記述と一致しています。
実際に行ってみました。
のどかな場所ですね。
野生の飛行艇がたくさんいます。
せっかく来たので、付近に住んでおられる方々に話を聞いてみたのですが、なんと70代以下の人は全員この話を知らず・・・
村唯一の90代の方1人だけが、この話をご存知でした。場所もここであったということ。残念なことに、体調がよくないとのことでそれ以上の話は聞けませんでした。
現状としては、実際に見たという方が2人、そのうち詳細な証言が得られたのは1人という感じです。場所に関していうと、別々の2人が同じ証言をしていることから、上記の場所でほぼ間違いないと思います。
ここまで読んで
なぜあれほど大きなものが沈んだのに海図に険悪地の記号がないのか。
と思った人もいるでしょう。一応それに対する弁明もあります。
先日、海上保安庁に海図の険悪地に対する質問をいくつかし、回答をもらいました。
詳細はまた別記事に書きますが、頂いた資料や回答から察するに、この周辺の海底調査の精度は私が思っていたほど良くないようなのです。
以前ご紹介した険悪地のほとんどは平成20年以降に見つかったもので、その前の調査が昭和30年代である海域もいくつかありました。
そういう訳で、場所によっては未だに新規の調査が行われておらず、昭和30年代の紐で水深を測っていた時代の情報が海図に載っているということもあり得ます。(そこまで可能性の高い話だとは言えませんが。)
そして、その平成20年以降の調査に使われた機材もいわゆる「シングルビーム」と呼ばれる比較的旧式のもので、物体が砂に埋もれていた場合には検出することが難しく、また、直下の水深しか測れないため、調査船の航路によっては大きな物体でもスルーされる可能性があります。水深が浅ければなおさらです。
まぁ、ただ単に引き揚げられたからもう無いんだという可能性も十分にありますが・・・
しかし、今のところ引き上げられたという話が残ってないのです。
あれほどの機体が揚がれば一時、残骸が近くの漁港に置かれたりなどして話題になるか、数日はかかる作業の様子を付近の住民の誰かが目撃しているはずです。現場の近くで25歳まで農業をしていた友人の祖父も引き揚げられたという話は聞いたことがないということでした。
この資料の少なさ、知る人の少なさから、なんだかそのまんま放って置かれているような気もしますね。
まぁ、とにかくここも実際に湖底を見てみないと本当のことがわかりません。
今回、非常に貴重な証言を得ることができ、調査に大幅な進展がありました。
個人のレベルでできることはそう多くないので時間はかかりますが、少しづつ、ゆっくりと調査をすすめていきたいと思います。
~続く~